2008年11月
2008年11月30日 (日)
2008年11月29日 (土)
2008年11月27日 (木)
2008年11月25日 (火)
ご存知なら
教えてください。
最近、中国の食品の事件は無いような気がしますけど、なぜ中国産の
牛肉 とか
豚肉 とか
は日本に無いのでしょうか?
あんなに広い国土なのに、牛・豚の畜産業もやっているような気がしてますけど、実際、中国は畜産業の発展が遅いですね!
日本にとって、よかったのか? 悪かったのか?
2008年11月23日 (日)
2008年11月21日 (金)
2008年11月19日 (水)
2008年11月17日 (月)
2008年11月16日 (日)
リニューアル
Közi のHPがリニューアルしました。
mana様の moi-dix-mois にゲストで参加するようです。
Dis inferno vol.VI~LAST YEAR PARTY~
2008.12.27(土) LIQUIDROOM
Moi dix Mois
GUEST : Közi(セッションetc...)
開場17:00/開演18:00
2008年11月15日 (土)
ただいま
昨日の夜、出張から帰ってきました。
長野はまだそんなに寒くは無かったですね。
今回の出張で何か名物を食べようと思ったけど、全然出来なかった現実にガッカリ!
初日の夜は、打ち合わせと今までそこで業務していた先発隊の慰労を兼ねて 『和民』風居酒屋 で食事。定番の刺身・焼き鳥や鍋です。
2日目、朝はビジネスホテルのビュッフェ方式の朝食。普通の朝食ですね。
昼は、役所の合同庁舎の食堂。味噌ラーメンを食べましたけど。
夜は、打ち合わせを兼ねて『養老の滝』でビールと鍋。
3日目の朝と昼は2日目と同じ。
仕事が終わり駅で土産を買おうと思ったら、3日間の業務の資料を持ち帰ることになり、荷物が増え、列車の出発時刻も迫ってきたので、結局駅構内の店で
りんご味ハイチュウ
を買っただけになりました。
慌しい主張でとても旅感覚には慣れませんでしたね!
来週は、千葉に行きますのでイチゴ入りの饅頭でも買ってきますかね!
2008年11月11日 (火)
2008年11月 9日 (日)
火事!
火事です!
今、現場から戻ってきました。ウチの近所で大火事です。
家から50mも離れていないアパートに火柱が立っています。
消防車が何台も来ていますが、道路が狭く効率が悪いようです。
昨日の今頃、火の用心で見回っていたのに。
怪我人がいなければいいのですが。
2008年11月 7日 (金)
2008年11月 6日 (木)
もう一人の偉人
飛行機の技術発明に携わった日本人には、もう一人
二宮忠八
という人物がいる。
愛知県生まれの、明治時代の技術者である。
以下、web引用
愛知県八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八の12歳の時に若くして亡くなってしまったために、家は困窮した。このため忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したというが、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。
明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。そうしたある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付く。そして忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えたのである(固定翼の着想)。
それを基に忠八は、模型飛行機を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった。
烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は軍を退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってそれから独力で研究することを選んだ。
大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて明治39年(1906年)に支社長にまで昇進する。この時期は飛行機の開発の資金をまかなうことはできず、ほかにスポンサーも現れなかったため開発は停滞した。この間、明治36年(1903年)12月17日、ついに ライト兄弟が有人飛行 に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行機への情熱を持ち続けていた。
支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。飛行機の動力については、従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知ってから、これを利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、忠八は12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力である)を自作する構想を立てた。
そんな矢先に ライト兄弟の飛行機の存在 を知るところとなる。忠八は、動力源以外完成していた飛行機の開発を取りやめてしまい、薬の製造の仕事にうちこむようになった。ただし、機体の重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは疑問視されている。
大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前却下された飛行機の上申があったことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいものであることがわかった。
こうしてようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰し、その後も数々の表彰を受けた。大正14年(1925年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年(1926年)5月、帝国飛行協会総裁から有功章をたまい、昭和2年(1927年)、勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載せられた。既に陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。
晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。
やはり、日本人の技術力は素晴らしい。
MADE IN JAPAN
は、こういう日本人の知恵からきているからやはり、
世界一
でしょう!
2008年11月 4日 (火)
残念、小室逮捕
あの 小室哲哉 が逮捕されました。
一時は納税額、10億円以上支払っていた人が5億円のために逮捕とは。
今でも、印税で1億円ほどは毎年入ってくるそうですがね。
でもここ10年間、彼の行動にアドバイスする友人とか、周りの人はいなかったのだろうか?
木根さんとか宇都宮さんは友人ではないのか?
70億円の投資失敗。
豪華別荘や豪華なヨット・車の購入など、お金の価値を見失った使い方に注意する肉親や家族はいなかったのだろうか?
あれだけ世に出た曲作りも、スランプは必ずあるはず。
あの、 YOSHIKI だって、そう容易く曲が次々とは出てこなかった。
10年間を充電期間と考えれば、別の暮らし方も出来たろうに。
2008年11月 3日 (月)
豚と馬
話題の映画、
ブタがいた教室
で最近、TVなどで、こういう教育の賛否や、飼った豚を食べるかどうかの賛否の討論をおこなっていました。
カツどんは大好きだが、飼った豚は食べられない
とか、
スーパーで売っている肉と、自分が育てた豚・牛とは違う
とか、
海や川で釣った魚と、豚・牛とは違う
とか、意見はいろいろでした。
今、何でも手に入る日本では、難しい映画かも知れませんね!
さて、昨日の天皇賞で、私の大好きな馬が2cmの差で2着になってしまいました。
1着のウォッカ↑
2着のダイワスカーレット↑
馬券は当たってはいますが、\2,000 買って \710 しか戻りませんでした。
そういうば、こういう強い馬は幸せな一生をおくりますが、3歳でも1度も勝てない馬は、食用になってしまう場合も数多いみたいですよ!
2008年11月 1日 (土)
浮田幸吉
浮田幸吉
この名前をご存知ですか?
日本、いや世界で一番最初に空を飛んだ人かもです。
以下、webサイトを引用させていただきます。
江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。
空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。
表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた(江戸幕府より打ち首にされたという説もあり)。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。
その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。
晩年は、駿府でも空を飛んで見せ騒乱罪で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に92年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。
墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」。
幸吉の飛行が事実であるならば、それは1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早い。とは言え幸吉はこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている(下記リンク参照)。また、重航空機に限らなければ、有人飛行はモンゴルフィエ兄弟の熱気球によって幸吉の飛行の二年前の1783年11月に達成されている。
日本人って、やっぱり凄いですね!



























